第5話 溢れ出す葛藤
とにかく暑い。
この炎天下で、陸上部の練習は本当に堪える。
期末テスト明けに加えて、夏風邪からの病み上がりで、思うように体も動かない。秋まで大会は無いし、これからゆっくり調整していけば良い時期ではあるが、そう悠長なことは言ってられない。
今日は月に一度のタイムトライアル、陸上用語で言うところの『T.T』が待ち構えているからだ。
『 一ノ瀬さんって、こんなに可愛かったっけ!?』第5話
グレゴリオ暦 二〇XX年七月三日
月村蒼一は異世界に飛ばされる
僕が虚ろに歩いていた、その時であった。
「蒼一、今日のT.T、どうよ?」
誰かが後ろから僕の肩を叩いてきた。
振り向くと、そこには小学生の頃からの友達である竜司がいた。
「今日は全然ダメだろうな。風邪治ったばっかで体動かないし。もしかしたら悠介に負けるかも」
僕は微笑を浮かべながら、竜司に向かって答えた。
「オイオイ、マジかよ? 一年に負けてるようじゃ、エースの名が廃るぜ?」
「はは、早くも世代交代かもね」
会話で出てきた『悠介』というのは、今年、ウチの陸上部に入部してきた期待の一年生である小山 悠介のことだ。
悠介は県内でも上位入賞できるくらいの実績を持ち、強豪校から推薦の話もあった実力者だが、今年から就任した顧問の高梨先生のツテもあり、ウチのような平凡な公立高校に鳴り物入りで入学してきた。
何とも勿体ない話であるが、僕も人のことを言えた立場ではない。
僕は竜司と取り留めの無い会話をしながら、グラウンドに向かって歩きだした。
噂をすれば早速、その悠介の姿が目に入ってきた。
悠介は一年生部員と二人で座っていて、雑談を交わしながら柔軟体操に励んでいた。
そして、柔軟体操用に彼らが準備してくれたと思われるブルーシートは、シワなく綺麗に敷かれていた。
「うぃっす~! はえーな、お前たち」
竜司は軽妙なノリで二人の一年生部員に挨拶した。
「シートありがとう。いつも助かるよ」
彼らの行動に感謝の念を込め、竜司に続いて僕も彼らに喋りかけた。
「ちわっす!」
すると、一年生二人も爽やかに挨拶を返してくれて、僕の気持ちは高揚した。
「今日はエースが調子悪いみてーだぞ? 下剋上のチャンス来たんじゃね、これ?」
竜司は僕の肩を強く叩きながら、無邪気な笑顔で声を発した。
一年生二人もそれに同調するように笑顔を見せている。僕も竜司が作り出した雰囲気に飲まれ、自然と笑顔がこぼれた。
僕と竜司もブルーシートに座り、柔軟を始めた。
相変わらず竜司の口数は減らず、間髪入れずに話を続ける。
時間が経つにつれ、練習場に到着する部員も増えてきた。そして竜司を中心に、次々と会話の花が咲き始め、場の雰囲気はさらに盛り上がりを増した。
練習前はいつも、こうした明るく和やかな雰囲気が訪れる。
厳しい上下関係もなく、後輩たちは陸上部の雰囲気を気に入ってくれているようで、僕も安心している。
僕が部活を続けているのは、進路の為に記録を残したい、走ることが好きなどというよりも、この雰囲気を楽しみたいからなのかもしれない。
ただし、そんな雰囲気を味わえるのは、本練習が始まるまで。
温和な空気を薙ぎ倒すように、顧問の高梨先生が雄大な体を揺らしてやって来た。
僕を含めた部員たちは声を張り上げ、緊迫した様子で挨拶をした。
先生が現れ、穏やかな空気が今にも破裂しそうな引き締まったものに一変することは、この部の日常である。
先生は集合をかけ、練習前の挨拶をする。
「今日は予定通りT.Tやるぞ。テスト明けで体も動かない時期だろうが、夏合宿、秋の新人戦に向けての一歩になる大事な練習だ。各自、意識を持ってタイムを設定すること。それと今日はこの気温だ。水分補給はこまめに取ること」
「ハイ」と部員全員は声を合わせて言い、各自、ウォーミングアップへと散って行った。
◇
タイムトライアルが始まり、僕らは各自の種目を次々と消化していった。
時間は刻々と過ぎ、僕の専門とする400mのスタートが迫ってきた。
今日、400mに参加するのは、僕と竜司、悠介を含めた計五名。
「400m組、そろそろ始めますよ!」
マネージャーから声がかかると、僕ら五人はスタートラインに向かって行った。
柔軟とアップを十分にやっても、やはり今日の僕の体は重い。
全力を出し切ったところで、大したタイムを望めないのは明らかである。
今日は自分の記録を狙うより、他の誰かの記録を伸ばすような走りをした方が、チームとして有意義なものになるだろう。
このメンツの中で、僕の次に速いと思われる悠介に、僕は声をかける。
「悠介、ここでのベスト、どれくらいだっけ?」
悠介は少し緊張していたのだろうか、引き締まった表情で僕を見た。
「えっと、56秒くらいですかね」
「そっか。でも、悠介なら55秒くらいはイケるんじゃないかな。俺、あまり調子良くないし、今日は悠介がベストを出せるよう専念する。だから、頑張ってついてきて」
「あ、はい。ありがとうございます。でも、月村先輩、手を抜くのは無しですよ!」
「わかってる。じゃあ、いこうか」
悠介は照れ臭そうに笑いを浮かべていた。
「まったく、次元の違う会話をしやがって。この怪物どもめがっ!」
威勢よく、少し品の無い声が聞こえたかと思うと、誰かに背中を強く押される感覚を得た。
後ろを振り向くと、ニヤけている竜司がいた。
「怪物はひどくないっすか、梅野先輩」
「少しでもお前らを動揺させる作戦だ!」
竜司と悠介のやり取りが始まると、スタートライン目前にいる五人全員に笑いが起こり、緊張の走っていた空気が和らぐのを感じ取れた。
「しゃあ! いくぜ!」
ゴール地点にいるマネージャーに向かって、竜司は手を振った。
スタートの準備が整うと、五人全員の顔が再び引き締まる。
号砲が鳴り、五人が一斉にスタートを切ると、僕の目の前に颯爽と駆け抜ける背中が現れた。
やはり悠介だ。
僕の体が思うように動かないのもあるかもしれないが、彼のベストから考えると、かなり速いペースで走っているように感じられる。
しかし、残り半分を過ぎたあたりで、悠介のペースが大きく落ちた。
僕は悠介に発破をかけなければと、ペースを上げ、悠介に並びかけた。
「悠介、ここからだぞ! 上げよう!」
僕は大声を発し、悠介を鼓舞したが、彼の表情はかなり歪んでいた。
僕は悠介の前に出たが、離れ過ぎないよう意識し、彼の闘争心を失わせないよう、ペースを維持した。
自分としてはかなり遅いペースだが、病み上がりの体にはかなり堪える。悠介のペースも意識しながらの走りで、メンタル的にも擦り減っており、残り50m付近では脚があがっていた。
そんな僕がゴール手前で、息を入れた瞬間⋯⋯、
隣から、颯爽と現れる影があった。
それは、疲弊した僕を置き去りにした。
--悠介!? まだそんな余力が⋯⋯!?
その影は、僕の後ろを走っていたはずの悠介だった。
僕の眼前に突如として現れた彼の背中から、死力を尽くしてゴールに向かう様子が窺えた。
--嬉しいけど、負けるのはヤバい⋯⋯!
悠介の成長は頼もしい限りだが、さすがにトップでゴール出来なければ、高梨先生に何を言われるかわからない。
いや、最後に前に出られた地点で、ご立腹なのは確実。
何はともあれ、ギアを上げなければ。
--あれ⋯⋯脚、動かない!?
ギアを上げようにも、思うように脚を前に運べない。想像以上に、僕の体は限界を迎えていた。
そして、僕は悠介より二、三歩ほど遅れ、ゴールラインを通過した。
「小山君、55秒52! 月村君、55秒73!」
タイムを読み上げるマネージャーの声がこだました。
悠介は前屈みになり、激しく息を切らしている。
僕の呼吸もかなり荒々しくなっていたが、何とか息を整え、悠介に喋りかけようと試みる。
「切れたね⋯⋯56秒!」
それを聞いた悠介は、ゆっくりと顔を上げ、ひどく引き攣っている表情を見せた。
「はぁ⋯⋯、はぁ⋯⋯、マジすか⋯⋯?」
悠介は、もはや声として認識できないような音を発していたが、彼の悲痛に歪んだ表情から、充実感も同時に感じられた。
しばらく二人で息を切らしていると、竜司が歩み寄ってきた。
「あれ、どっち先着?」
「悠介。最後、抜かれた」
「マジか! ホントに世代交代来ちまったのか!?」
「大袈裟ですよ⋯⋯、月村先輩、風邪治ったばっかだし⋯⋯」
悠介の顔はまだ少し歪んでいたが、彼は微笑を浮かべながら、竜司の方を見て言った。
「はは! 謙遜するなよ、次期エース!」
竜司は悠介の肩を何度も強く叩いた。その音と共に、張りつめていた空気が解きほぐされ、練習前の和やかな雰囲気が戻ってきた。
その後、一緒に走っていた二名も合流し、互いに労いの言葉をかけ合った。
◇
和やかな雰囲気は、そう長くは続かなかった。
僕らの輪をなぎ倒すかのように、高梨先生がこちらへ向かってきていた。
彼の鋭い視線は、やはり僕に向けられているようだ。
先生は案の定、僕の目の前に立った。
その雄大な体格からすると、まさに仁王立ちと呼ぶに相応しい。
灼熱のグラウンドにいるにも関わらず、凍りつくような空気が僕らを支配した。
「おい月村、どういうつもりだ?」
こんな場面には何度も遭遇しているが、相変わらず慣れる気がしない。
先生の迫力に、僕は一切口を開くことが出来ず、ただひたすら立ち尽くすだけだった。
「また手ェ抜いたろ? 55秒とかふざけたタイム出しやがって。おまけに一年に負けるとか、あり得ねえだろ。何考えてんだ、お前」
何も口に出せない。
自分の弱さに苛つきすら覚える。
「何とか言えよ⋯⋯!」
次の瞬間、先生の大きな右平手が、僕の左頬を貫いた。
今年になって何度も喰らっているが、これもまた、慣れる気がしない。
何か言わなければ。
早くこの緊張を破らないと、みんなが耐えられない。
「すみません、やっぱりまだ調子が出なくて」
「あぁ!? 調子が出ない? 病み上がりだからって言い訳するつもりか? そもそも風邪ひくなんてことがあり得ねえんだよ! 体調管理が大事かって、いっつも言ってんだろうが、この甘ったれがっ!」
今度は右肩を強く小突かれた。
走り切った後で疲弊した僕の脚は耐えられず、思わずヨロけてしまった。
どうしたら納得してもらえるだろう。
脳内を巡らし、何とか言葉を選び出さなければ。
「今日はどう頑張ってもタイムは出ないと思ったので、小山君のベストを引き出そうと決めていました。一応、小山君もベストが出たし、自分の記録が出ないなら、少しでもチームの為に役立とうと思って」
言葉を絞り出したが、先生の顔付は険しくなる一方だった。
「自分の事もロクに考えられない奴が、チームの事とか偉そうなこと言うんじゃねえ!」
先生の鋭い殺気が感じられた次の瞬間、右脇腹の激しい痛みと共に、僕は尻餅を付いていた。
どうやら先生の右足が僕の右脇腹を襲い、僕はその衝撃に耐えられず、地面に叩きつけられたようだ。
「全く、お前の闘争心の無さに、俺はいっつもイライラしてんだよ! 自分にどれだけ力があるか、お前わかってんのか!? 何でその力を活かそうとしねんだよ! そんな甘ったれた気持ちで将来やっていけると思ってんのか!?」
痛いところを突かれた気がする。
左頬や右脇腹の話ではない。
僕の心の深いところだ。
地べたに座り込んだまま、僕は周囲を見渡した。
悠介をはじめ、一緒に走ったメンバーは何も言わずに立ち尽くしている。
ただし、竜司の表情だけ違っていた。
彼の顔だけは険しくなっていて、今にも何か爆発しかねない様子だった。
「てめえ⋯⋯! いい加減にしろよ!」
その予感は的中していた。
竜司は僕の目の前に立ち塞がり、先生と正面から向き合った。
竜司は激しい形相で先生を凝視していたが、先生に動じる様子は全くない。
「前蹴りとか、いくらなんでもヒド過ぎんだろっ!?」
「またお前か梅野。そうやっていつも無駄に刃向いやがって。そんな元気があったら、少しでも練習に向けたらどうなんだ、このノロマが。」
「俺のことはどうでもいいんだよ! 蒼一にあやまれよっ!」
「お前には関係ない、いいからどけ」
竜司は先生の言葉に聞く耳を持たず、彼から目線を逸らすと、倒れた僕の方に詰め寄った。
「蒼一、大丈夫かよ⋯⋯? なあ、こんな部もう辞めてやろうぜ」
『辞める』という竜司の一言に、僕は全く頭の整理が追いつかない。
「こんな仕打ち、もう耐えられねえだろ!? 俺、もう見てらんねえよ!」
竜司は激昂した口調で語るものの、彼の優しさもまた、僕には伝わってくる。
たしかに顧問の先生に暴力紛いの指導をされるのは辛い。
僕はよくM体質などと揶揄われるが、こんな仕打ちを好き好んでされているわけではない。
それに陸上は続けたい。進路にプラスになるのは勿論、走るのは楽しい。
そして何より、部員たちとの交流が、僕にとって至福の瞬間である。
ただ、竜司はきっと僕の事を思ってこの行動に出てくれている。僕が何度も高梨先生から暴力を受ける度、間に割って入ってくれた。
しかし『辞める』という言葉を口にしたのは初めてだ。
竜司だって陸上は続けたいはず。
短絡的な思いでこの言葉を口にしているわけではない。
今まで彼の中で何度も葛藤があって、紡ぎ出した言葉だと、僕には感じ取れるものがあった。
暴力⋯⋯将来⋯⋯仲間⋯⋯友達⋯⋯、僕の頭の中を複雑な葛藤が暴れ出す。
暫くして僕は重い腰をあげ、言葉を選び出す。
「今日はもう⋯⋯これで失礼します」
僕は俯いたまま開口したが、何とも曖昧な表現だった。
その言葉に、竜司がすぐさま反応する。
「よっしゃ! 行こうぜ! オイ⋯⋯、歩けっか?」
よろけながら歩き出す僕だったが、竜司はすぐさま支えるように僕の腰に手をやった。
「うん⋯⋯、大丈夫」
絞り出すように僕は竜司に声をかけた。
「おい、こら! お前らどこ行く!? 話はまだ終わってねえぞ!」
高梨先生の怒鳴り声が耳に入ってきたが、それが僕の心を揺さぶることはなく、ゆっくりと前へと歩き続けた。