第13話 早めの登校
朝の目覚めは悪くはなかった。
負荷をかけた練習の後でも筋肉痛はそれほどなく、だるさを感じずに起き上がることができた。
昨日の夜にあった不思議な出来事が頭から離れず、夢だったのか、現実だったのか、未だに判断がつかないでいた。
とはいえ、あの女性は外見といい、行動といい、あまりに現実を逸脱していた。ゲームのやり過ぎに加え、欲求不満な若い童貞男子が見る、ちょっとリアルな夢だったと結論づけるのが妥当だろう。
あれは悪夢?
いや、むしろ良い夢だった。
『 一ノ瀬さんって、こんなに可愛かったっけ!?』第13話
グレゴリオ暦 二〇XX年七月四日
月村蒼一は異世界に飛ばされる
最後は良心が勝って彼女を振りほどいたが、絶世の美女に誘惑されて、嬉しく無いわけがない。十代後半でオタク気質の男子の僕にとって、それは夢の中でも無いと体験できない、憧れの出来事である。しかも『異世界転移をしないか』などという勧誘は、廃人文化に染まりつつある僕にとって、都合の良すぎる話だ。
そんな『良い夢』だったからこそ、練習を抜け出し、気まずい思いをしたことからも解放され、悪くない目覚めを呼び起こしたのかもしれない。
『それにしても硬いお腹⋯⋯さすがスポーツマン⋯⋯』
『もう、やーね⋯⋯こっちまでこんなに硬くなってどうするのよ?』
僕を誘惑してきたあの人の台詞が、思い起こされる。
--あの時、振りほどかなかったから、どうなっていたんだろう。
僕は脳内でくだらない妄想を次々と浮かべる。
『ちょっと見せてごらんなさいよ。ふふ、元気ね。若いっていいわ』
『毎日、自分で出すのもむなしいでしょ? 今日は私がどうにかしてあげる。どうする? 手でも口でもいいし、よければ胸ではさんであげてもいいわよ?』
「そ・れ・と・も⋯⋯、童貞クン、卒業しちゃう?』
僕の股間が熱くなっているのは、寝起きだからか、この妄想のせいなのか、最早わからない。
僕は徐に自分の右手を、スウェットの股間に突っ込ませた。
「蒼くん! 起きてる!?」
下のリビングから、母のモーニングコール代わりの声が聞こえてきた。
「!?」
僕はハッと我に返り、右手を元に戻した。
「はーい! 今、降りる!」
僕は現実を思い返し、リビングへと向かった。
--俺もそろそろ病気かな⋯⋯。やっぱり本気で彼女、作らないとダメかな?
◇
リビングには、食事の用意をする母と、朝刊を黙々と読む父、そして、いつも僕の座るソファの位置に、姉が寝転んでいた。
「ミオ姉、そこ俺の⋯⋯」
だらしなく寝そべる姉を力付くでどかそうと近づいた瞬間、姉がなぜか僕を引き寄せるように抱きしめてきた。
「やぁーだぁーっ! すぐるーっ! まだ行きたくないーっ!」
姉は僕の顔を胸に沈めるように、抱きかかえてきた。
「もうちょっといっしょにいてよぉ~!」
「はぁ!? 何なんだよ⋯⋯ってか、放せよーっ!」
僕は姉を必死で振りほどいた。
昨日の夜は、されるがままにされたい思いもあったが、今のこれは本気でイヤだった。この年になって自分の姉に抱きつかれるなど、気持ち悪くて仕方がない。
「ちょっと、美緒! いつまで寝ぼけてるの!? それ、蒼くん!」
「はあっ!?」
母の一言に姉は反応し、乱暴に僕を解放した。
すると、姉は焦点の合わない目でこちらを見てきた。
「わ、うざっ。何あんた」
心ない姉の一言に、僕は思わず反応する。
「うざっ、じゃねーよ! こっちの台詞! そっちこそいきなり何なんだよ!」
「いろいろあんのよ、大人には。あんたみたいな童貞のガキんちょにはわかんないでしょうけど」
「はあっ!? わけわかんねーし!」
理解不能な姉の言動に声を荒げ、僕の目は完全に覚めた。
全く誰も彼も、僕のことを童貞、童貞としつこいように言う。
いい加減ウンザリである。
「朝からうるさいわね、アンタ達は! お父さん、新聞読むのジャマになるでしょ!?」
母は僕らを怒鳴りつつ、朝食をテーブルに並べた。僕に全く非はないように思えるが、ここは喧嘩両成敗。素直に大人しく、ソファに腰かけた。
「あぁ~、ねむ⋯⋯」
一方、姉は重そうに腰をあげた。
「美緒、今日、学校は?」
「午後から。だからそれまで寝る」
「まったく⋯⋯あなた、最近ちょっとダラダラしすぎじゃない?」
「いいの、アタシにはスグルがいるし。アタシは彼のために生きてればいいの」
「何を言ってるのやら⋯⋯、ホントにこのコは」
スグル⋯⋯?
聞かない名前だ。僕は味噌汁を吸いつつ、一応、聞いてみることにする。
「だれ? スグルって?」
「最近できた彼氏ですって」
説明する母の顔は冷め切っている。
すると、ここぞとばかりに、姉は僕の方に振り返って口を開く。
「ヘヘーん、どうよ? このイケメンっぷり!」
姉は自慢気にスマホを見せてきた。
そこに映し出される男は、確かに整った顔立ちをしている。全体的に爽やかにも、少しチャラくも見える。
「アンタもがんばってスグルくらいになるのよ。まあ、アンタみたいなオタク野郎には無理だろうけど」
「うっさい、余計なお世話。早く寝ろ、色ボケブス」
「は? チョーうざ。蒼、アンタ覚えときなさいよ」
姉はそう言うと、自分の部屋に戻って行ったようだ。ようやく落ち着いて朝食が取れる。
普段、僕は汚い口の聞き方はしないよう心掛けているが、迷惑極まりない姉の前では別である。
◇
朝食を食べ終え、時計の針は七時半の辺りを刺していた。学校の始業は八時半で、自転車通学の僕は、八時に家を出れば余裕で間に合う。
出発まであと三〇分で、着替えも終わっている。それまで、僕はスマホを弄って過ごすことに決めた。
『とりあえず、明日の朝の八時五分、あなたの学校の剣道場の裏に来て。そうしたら、異世界に連れて行ってあげる』
「!?」
僕はふと、昨日の夢のことを思い出した。
そういえば、夢の中の美しい女性から、今日の八時五分に剣道場へ裏に来るように言われていた。
それにしても、夢に出てきた言葉を正確に記憶しているなんて、なかなかあるものではない。
よっぽど印象に残るものだったのであろう。確かに、これまでの人生で見た夢の中では、最も印象強いものだったと言えるかもしれない。
--まさかとは思うけど⋯⋯一応行ってみるか。
僕は早めに家を出ることにした。
歯を磨き終え、カバンの中身を確認した。
時間は七時四〇分前。
自転車を飛ばせば一五分もかからず学校に着くので、指定の八時五分には、まだ間に合うはず。
「じゃあ俺、もう学校いくね!」
洗面所にいる母に聞こえるよう、僕は声を張って言った。
「あら? 今日は早いのね」
「うん、ちょっとね。じゃあ行ってきます!」
「忘れ物ない? 気をつけるのよ」
「はーい」
僕は颯爽と玄関まで足を運び、ドアを開けた。