第10話 奇妙な男の提案
無邪気で苛立たしい叫び声の余韻が残るその時であった。
「消さないのか?」
「!?」
私はふと顔を見上げた。誰かが私に声をかけた気がした。
私は周囲を見渡していた。
「あ⋯⋯」
自然と口から声が零れた。
私のすぐ側に、一人の男の人が立っていたのだ。
『 一ノ瀬さんって、こんなに可愛かったっけ!?』第10話
グレゴリオ暦 二〇XX年七月三日
一ノ瀬紅彩は異世界に飛ばされる
「どうやらお前の正義は、まだ僅かに残っているようだな」
私のことを知った風に話すその人は、真剣な顔をして私の目を見ていた。
「誰⋯⋯?」
「俺か? それはまだお前が知る必要はない。ただ、俺はお前と会う運命にあった」
⋯⋯?
⋯⋯⋯⋯?
意味がわからない。新手のナンパだろうか?
確かに、この人の見た目はかなりモテそうな感じではある。
背が高く、身体もガッチリしている。顔立ちも整っていて、鼻筋が高く、彫りの深い目を持っている。純粋な日本人でないことは明らかで、少なくとも欧米系白人のハーフであることは間違いない。彼のペラペラ過ぎる日本語は、その顔立ちからすると、違和感を覚える。
そんな彼が、地味で、とりわけ可愛くもない子供の私に声をかけるなんて、この人はどういう感性を持っているのであろうか。
それに、この人の髪型や服装もどうかしている。
赤く染め上げた短髪がツンツンに立て上げられていて、中世ヨーロッパの騎士のような鎧を纏い、腰には剣が収められている。
コスプレみたいな格好をして、こんな侘しい河原を一人で歩いているなんて、冷静に考えると笑えてくるし、この人がものすごく気味悪く思えてきた。
「⋯⋯意味わかんないんですけど」
私はスマホをカバンにしまい、その場を立ち去ろうとした。
「きゃっ!」
鉄橋下の日陰から出ようとすると、身体に電流のような痛みが走り、私は尻餅をついていた。
「悪いが話が終わるまで、ここから出すわけにはいかない」
男は倒れた私を見下ろしてきた。
周りには誰もいない。
この屈強そうな男と、貧弱な女の私の二人だけ。
私は恐怖を覚え、脚が震え始めていた。
「そんなに怖がることはない。お前を襲おうなんて気は全くない。話というか、提案をしたいだけだ」
男は脅すような口調で言うが、真剣な表情を崩すことはなく、悪気がないことは何となくわかった。
「提案って⋯⋯なんですか?」
私は恐る恐る口を開いた。
「お前の秘められたその正義感、存分に活かせる世界がある。そこに俺と共に来て、力を貸して欲しい」
⋯⋯夢でも見ているのだろうか?
男の見た目もさることながら、口にする言葉にも全く現実味が無い。
夏の強い日差しを遮るこの鉄橋の下の空間だけ、別世界に迷い込んでいるように思えた。
「この世は正しいと思われること、倫理的だと思われることでも、歪んだ欲望によって捻じ曲げられてしまう。お前の正義を貫くその心も、欲望の渦に飲み込まれ、色褪せてしまった」
男は小難しいことを語り出し、さらに続ける。
「お前をいじめていた集団は、自らの物足りなさを、周りから慕われていたお前を妬み、優位に立つことで、それを晴らそうとした。そして、お前の父は正義感の強さを利用され、体を酷使し、死という最悪の結果を迎えた」
「は⋯⋯? 何でそんなこと知って⋯⋯」
思わず私は声を漏らした。
この男は異様に私のことを知っている。
意味がわからない。
もう、夢を見ているとするしか、この事象を片付けられない。
「俺について来れば、お前の秘められた正義を呼び戻し、再び活力溢れる日々を与えんことを約束しよう。お前が殻に閉じこもり、その力をしまっておくのはあまりに勿体ない」
「私の⋯⋯秘められた正義⋯⋯」
男の言葉に、私の心は揺れていた。
いじめと父の死のトラウマがあり、自分自身を押し殺し、大人しく生きようとしていたことは、私にとって非常に窮屈だった。
この男の言う『世界』に行けば、生き生きとした私を取り戻せるのだろうか。
いや、そもそも、この状況が現実かどうかも疑わしい。
「じゃあ、今から私をその世界に連れて行ってくれるんですか?」
私は眼前に広がる状況をよく出来た夢だと結論付け、面白半分で楽しむようなノリで答えた。
「来てくれるのか?」
男の真面目な顔は変わらない。
「はい、いいですよ。なんか面白そうだし」
一方の私は、小馬鹿にしたような笑いを浮かべながら答えた。
「⋯⋯まあ、いいだろう。どんな形であれ、お前のような優れた人間を育て上げることが出来れば、何でも良い」
「はあ⋯⋯。育て上げる⋯⋯?」
「とにかく、来てくれるというのであれば、明日、お前の学校の剣道場裏に、朝の八時五分までに来い。そうすれば、俺の言う世界に連れて行ってやる」
疑問の言葉を呟く私を尻目に、男は私にそう指示してきた。
「八時五分に剣道場裏⋯⋯?」
「期待しているぞ」
男はそう言って振り向き、その場を立ち去ろうとした。
「あ⋯⋯ちょっと待って⋯⋯!」
私が男を呼び止めようとすると、彼はふとその場から消えてしまった。
「え? 消えた⋯⋯? あれ?」
私は周囲を見回すも、妙な格好をした大男はどこにもいなかった。
「そういえば⋯⋯」
私はついさっき鉄橋の下から出ようとした時、身体に電流のようなものが走ったことを思い出した。
私は恐る恐る、この日陰から出ようとした。
日陰から足を跨いだ瞬間、私は思い切り目を瞑った。
⋯⋯⋯⋯
⋯⋯
⋯⋯⋯⋯
「⋯⋯普通に出られるし」
私は目を開くと意図せず声を出し、安堵した。
--はは⋯⋯疲れてるのかな、私。今日はショックなものを見ちゃったし、きっと、現実逃避したいだけよね。
あくまでも、私は先ほど目の当たりにした事象を、夢の類だと結論付けた。
幻想的な世界に逃げ、現実から目を逸らしたいという自分の願望⋯⋯それが幻覚のようなものとして、眼前に現れたに違いない。
--もういいや、とにかく帰って寝よう。相当病んでるな、私⋯⋯。
私は再び重い足取りで、家路についた。