第85話 邪神の仮面を被りつつ
僕は控え室を出ると、コロシアムの中心に立つ一ノ瀬さんの姿を確認した。彼女は腕を組み、僕の到着を今か今かと待ち構えているように見えた。
僕は怯まず、一歩一歩力強く地面を踏みしめ、彼女の立つ場所へ歩みを進めた。
『 一ノ瀬さんって、こんなに可愛かったっけ!?』第85話
アルサヒネ歴 八六六年五月一三日
月村蒼一は異世界で再会を果たす
やることはやった。
彼女を呪縛から解き放つ為に、この一ヶ月、ひたすら準備を重ねてきた。
そして何より、先程のハプスさんとの闘いを見たおかげで、一ノ瀬さんの見えざる部分を知ることができ、僕は闘い易くなった。
一ノ瀬さんのスタイルは魔術師タイプで、常に距離を置いて戦うのが基本。その距離を保つ為のスピードが、彼女は異様なほど優れている。まともに追いかけて捉えられるものではない。そして、中途半端に距離を詰めようものなら、彼女の振るう強烈な鞭の餌食となる。待ち受けてカウンターを狙うのが、妥当な作戦と言えるだろう。
とはいえ、待ち受けると言っても、彼女の攻撃は遠隔射撃が中心。彼女自身が直接近付いてくるわけではないので、カウンター狙いなど以ての外。待ち受けているだけでは、ただひたすら的になるだけで、結局手詰まりに思える。
しかし、一ノ瀬さんから魔術師タイプとして、決定的な弱点が窺えた。
それは、ハプスさんが『怒らせて本気を出させた』という点にヒントがある。
などと考えていると、僕はいつの間にやらコロシアムの中心まで到達しており、一ノ瀬さんの目の前に立っていた。
「!?」
僕は一ノ瀬さんの顔を見て、驚愕した。
彼女は顎を強く引き、まるで人の顔とは思えないくらいの鋭い目付きで、僕のことを睨んでいた。
修羅の如く、
鬼神の如く、
般若の面を被るかの如く。
それらの表現すら生温く思えるくらい、彼女の表情は常軌を逸していた。
一ノ瀬さんは僕の顔を確認すると、彼女はまた表情を変えた。今度は顎を思いきりあげてニタリと笑い、こちらが吐き気を覚えるくらい不気味な笑顔を見せた。
「もうぅ⋯⋯遅かったじゃない。ビビって逃げたのかと思った」
彼女の妙に優しい口調が、さらにその悍ましさを増幅させた。
最早、同じ人間ではない。
完全に悪魔に取り憑かれ、一ノ瀬紅彩という人間の魂は、この世に消え去ったかのように思えて仕方なかった。
「まあ⋯⋯逃げても地の果てだろうが、追っかけてくけど」
目の前の悪魔はそう言うと、僕のすぐ側まで近付いて来て、僕の顔を覗き込むように見上げてきた。
「ねえ? 私だけの月村くん⋯⋯」
僕は込み上げてくる気味の悪さを耐え、彼女の脅しとも取れる睨みを堂々と受け止めた。
そして彼女の顔を凝視し、無表情を崩さなかった。
「俺は君のモノになった覚えはないけど」
僕はサラりと言い放った。
それを聞いた彼女は笑うのをやめ、再び眼光を鋭くさせた。
「⋯⋯ケンカ売ってんの? そんなに死にたい?」
脅しをかける彼女を他所に、僕は右手を短剣の収まる鞘へと近付けた。
「君さあ⋯⋯そんなに俺に近付いていいの? 俺は⋯⋯」
次の瞬間、僕は鞘から剣を抜き、一ノ瀬さんの上半身を横殴りに斬りかかった。
それを察知した彼女はすぐさま反応し、後方へ素早く飛び上がった。
「つっ⋯⋯!」
数メートル先で着地した一ノ瀬さんは、軽く顔をしかめ、右の腹部を手で押さえていた。
その押さえた部分から、血が滲み出ているのが見えた。
「俺は短剣使いなんだけど。さっきみたいな間合いだったら、やりたい放題だよ?」
淡々と喋る僕の方を、一ノ瀬さんは再び睨み付けた。
「この卑怯者っ! 試合はまだ始まってないでしょ⋯⋯!?」
「そうだね。君の言う通り、俺は邪神の使い。目的の為ならどんな手段も選ばない卑怯者。そんな外道の俺にとって、ルールなんて関係ないんだ」
「はあっ⋯⋯!?」
僕が一ノ瀬さんに奇襲を仕掛けると、会場からブーイングの嵐が起こった。それはとりわけ、フィレス側の観客席から発生していた。
『ざけんなこのガキ!』
『試合はまだ始まってねえだろうが!』
品のない罵声が、僕に浴びせられた。
『キャリダット大将ソーイチ、指導による減点!』
審判席からも、激しく声をかけられた。
だが、僕にとっては何の関係もない。
この試合の勝ち負けなど、どうでもいい。
僕のやることはどんな形であれ、一ノ瀬さんの心に縛り付けられている重荷を取り除くことだ。
「開き直りやがって⋯⋯! もう許せないっ!」
一ノ瀬さんがそう言った瞬間、試合開始の鐘が鳴った。
彼女は右手を腹部から離して身構え、臨戦態勢を整えた。
「開き直る? 言っている意味がわからないな。じゃあ何か? 君は俺のこと、本当は良い奴だと思ってたってことかい?」
「!?」
僕の放つ台詞に、一ノ瀬さんは口を結んだ。
「そろそろ、君も気付いてるんじゃないのか?」
「やめてよ⋯⋯」
「君の主人であるアルディンさんは」
「黙れ⋯⋯!」
「俺が邪神の使いなどと、出鱈目を吹き込んで」
「うるさい⋯⋯!」
「君のことをいいように」
「黙れって言ってるのが⋯⋯!」
「洗脳しているということ」
「聞こえねえのかああああぁぁっ!」
一ノ瀬さんの発狂した叫び声が、空高く響き渡っていた。