第97話 思いがけぬ来訪者
僕はヌヴォレのバーで座っていた。
窓際の席に座っていると、眩いばかりの朝の爽やかな日差しが、瞳を刺激する。
その眩しさは、昨日会った一ノ瀬さんの笑顔を彷彿とさせる。
活気を取り戻して光り輝く彼女の笑顔が、一夜明けても僕の脳内で執拗に絡みつき、それは僕を惚けさせるには十分な勢威があった。
心を奪われた僕は、ひたすら窓の外を眺めるしかなかった。
『 一ノ瀬さんって、こんなに可愛かったっけ!?』第97話
アルサヒネ歴 八六六年五月二七日
月村蒼一は異世界で恋に落ちる
「おーい! ソーイチ!?」
「!?」
僕を現実に引き戻した声の主は、目の前に座るバリーだった。
「え、あっ⋯⋯! な、なに?」
僕は慌てて彼の声に反応した。
「どうした? ボーッとして」
バリーは、心配そうに僕の顔を見つめていた。
「ご、ゴメン⋯⋯、何でもないよ」
「あ、そう。ならいいけどよ」
すると、一人の女子の声が、僕らの間を割って入ってくる。
「何でもない、ねえ⋯⋯」
その声の主であるグラシューは、頬杖をつきながら、僕の目を恨めしそうに見ていた。
「朝っぱらからニヤつきやがって。チョーキモいし」
「え⋯⋯うそ? ホントに?」
外から見たら、そんな顔をしていたのか。
僕は激しい羞恥心に襲われた。
「さぞかし、ゆうべはお楽しみだったんでしょうねえ」
「う⋯⋯」
そんなグラシューの台詞を聞いて、僕は悪のドラゴンからお姫様を助けた勇者の気分になり、大いに戸惑った。
また、そんな彼女の冷たい目線に、僕は身を引いた。
◇
状況を整理すると⋯⋯。
僕は、窓際に一人で座っていたわけではない。
実はすぐ側に、バリーとグラシューも同席していた。
昨日で抱えていた案件がひと段落し、今日の僕とグラシューは、フリーになったばかりであった。
大体、こういう時は決まってバリーを呼びつけ、同い年三人で談笑を交わしつつ、これからどこに遊びに行こうかなど、計画を立てることが日常になっている。
ただ、今日の僕は何事にも上の空だった。
その醜態ぶりは、先ほどグラシューに指摘された通りである。
また、その原因は先ほど述べた通り、昨日、僕に眩いばかりの笑顔を与え、悪魔から天使に変貌を遂げた一人の少女であった。
「え? お楽しみって、何だよ?」
バリーが不思議そうな顔をして、僕らの顔を見てきた。
「そこの色ボケ野郎に、聞いてみたら?」
「い、色ボケって⋯⋯。別に疾しいことは、何もしてないから!」
「ふーーーーーーん⋯⋯」
今日の彼女の『ふーん』は、いつにも増して長い。
僕に対する不信感の大きさを窺わせる。
ただ、僕は本当に疾しいことはしていない。
気落ちした女の子を、元気付けに行っただけだ。
一部屋に二人きりでいたことは確かだが、本当に会話をしただけであって。
誰かに咎められるような、淫らな行動はしていない。
どちらにせよ、なぜ僕はグラシューに、恨めしそうな目で見られなければならないのだ?
そんなことを言うと、世の女性からは鈍感などと非難を浴びるのだろうが、言わずもがな、さすがの僕も、彼女のその視線の理由くらい、いい加減わかっている。
ただ、僕にだって『選ぶ権利』はある。
それだけのことである。
「⋯⋯よし、わかった、ソーイチ。あとでオレら二人で、男の会話をしよう」
「は⋯⋯?」
バリーは何かを察したのか、意味深な台詞を僕に言い残した。
「で、ソーイチ。お前は今日どーすんの?」
「え? どうするって⋯⋯?」
「んだよ、聞いてなかったんかよ」
バリーは呆れ顔で、僕の目を見ていた。
「ダメだよバリー、そんな色ボケ野郎にまともな答え、求めるだけムダだから」
バリーの隣に座るスパルタな師匠は、冷ややかな瞳をもって言い放った。
「はは⋯⋯、ゴメン。何の話だっけ?」
「今日の夕方、オレのソロライブ観に来るかって話。今日、お前らフリーだって言うからよ。グラシューは行くって言うけど、お前はどうすんの?」
「ああ⋯⋯そっか、そうだったね」
僕は頭を掻きながら言った。
「やっぱ⋯⋯予定ある感じ?」
何か多分に意味を含ませた一言を、バリーは口にした。
「べ、別にないって! 行く行く! 俺も今日は、完全フリーだからっ!」
「お、おう⋯⋯。そうか」
「すごいじゃん、バリー! ソロなんて! いつもバンドでやってるイメージだったけど、一人でもやっちゃうんだ!」
僕は声を張り上げて言った。
「あ、ああ。知り合いの伝手があって、将来、良い経験になるからやってみないかって。まあ⋯⋯さっきもこの話、したんだけど」
「あ⋯⋯そうだっけ⋯⋯?」
僕は再び、顔を赤らめた。
「はあっ⋯⋯」
そして、師匠は大きく溜息をついていた。
◇
その後、僕ら三人は、しばらく取り留めもない会話を交わしていた。
完全にリラックスモードで束の間の休日を味わっていた、その時であった。
『月村くん⋯⋯?』
慣れ親しんだ母国語で且つ、透き通った声で、誰かが僕の名前を呼んだ。
僕は、その声が聞こえた方を振り向いた。
「!?」
目の前に立つその女性の姿を見て、僕は驚愕し、思わず立ち上がっていた。
『一ノ瀬さんっ!?』
そこにいるのは、間違いなく一ノ瀬さんだった。
精霊の住処で静かに横になっているはずの彼女が、今、なぜここに?
夢でも見ているのか?
僕の脳内は幻覚を見せるくらい、彼女のことで侵されているのか?
『ごめん⋯⋯来ちゃった』
一ノ瀬さんは照れくさそうな上目遣いをして、僕の方を見た。
申し訳なさそうな彼女の視線に、僕の心は大いに刺激された。
『もう⋯⋯体は大丈夫なの?』
『うん、平気』
一ノ瀬さんは仄かに笑い、コクリと軽く頷いた。
現実味が強く感じられる。
これは夢の類ではない。
一ノ瀬さんは、僕に会いに来てくれた。
昨日の寝巻きのような格好とは一変し、しっかりと粧めかし込んだ魔女スタイルで現れた。
相変わらず、胸元は広く開けられており、豊満な谷間を見せつけていた。彼女はお淑やかな雰囲気とは裏腹に、いつも強気な着こなしを見せる。
「ああーっ! もしかして!」
グラシューが、耳を劈くような声を響き渡らせた。
すると彼女は、一ノ瀬さんの前に立ち塞がり、睨み付けていた。
「アンタ、クレアでしょ!? こんなところに何の用?」
「あ⋯⋯えーっと⋯⋯」
グラシューに突っかかれる一ノ瀬さんは、困り顔を見せ、狼狽えていた。
「よくもウチのバカ弟子を痛め付けてくれたなぁ〜!」
「ちょっと⋯⋯グラシュー!」
僕は、一ノ瀬さんに激しく怒号を浴びせるグラシューを呼び止めた。
しかし、グラシューは聞く耳を持たず、一ノ瀬さんを熾烈に捲し立てる。
「そんなエロい格好でフラフラしやがって。何、今度はそのでっかい胸でソーイチを誘惑しようっての?」
「やめろって!」
「むぐぅぅ!」
止まることを知らないグラシューの罵声を抑えるべく、僕は彼女の口を手で無理矢理ふさいだ。
並大抵でない勢いでグラシューは暴れ、抵抗する。その動きを止めるには、多少のマナを放出せざるを得ない程であった。
『ゴメンね! この人、口がキツくて、思ったこと何でも言っちゃうから⋯⋯』
『いや、大丈夫だよ』
グラシューを制止させながら、慌てて喋りかける僕に対し、一ノ瀬さんはニコリと笑い、答えてくれた。
『月村くん、その人は?』
『え? あっ、えっと⋯⋯俺に短剣術を教えてくれてる師匠なんだけど⋯⋯』
『ああ⋯⋯そういえば、試合の時にも言ってたね。最後に私を倒した技、教えてくれた人だって』
『あ⋯⋯そうだったっけ⋯⋯?』
そんなことを言っただろうか。
あの時、僕は夢中で闘いに臨んでおり、自分の喋った台詞を一言一句、覚えている余裕は無かった。
『月村くん、お師匠様に失礼だから、放してあげて』
『え⋯⋯あ、ああ⋯⋯』
僕は一ノ瀬さんに指摘を受けると、あっさりグラシューの拘束を解いた。
「ぷはっ!」
急に手を放したからか、グラシューは前のめりになり、転びそうになっていた。
「大丈夫ですか!?」
一ノ瀬さんはアルサヒネ語で声を張り上げ、よろけるグラシューに歩み寄り、手を添えた。
「あ⋯⋯どうも」
細々しい声を出すグラシューは、一ノ瀬さんの目を見た。
「あの⋯⋯申し訳ありませんでした」
「はえ⋯⋯?」
突然、一ノ瀬さんに謝られたグラシューは、目を見開いた。
「この度は、お弟子さんに大変なご迷惑をおかけしまして。いくら謝っても許されるとは思っておりません」
「は、はあ⋯⋯」
一ノ瀬さんは礼儀正しく歯切れのよい口調で、グラシューに謝罪の弁を述べていた。一方、グラシューは唖然と口を開け、思考が停止しているように見えた。
「どんな仕打ちでも受ける覚悟は出来ています。あなたが私に望むこと、何でも仰ってください」
「えっ、ええ⋯⋯? 何でもっつったって⋯⋯」
一ノ瀬さんの凛とした眼差しに対し、グラシューが尻込みしているのは判然としていた。また、グラシューは僕の方を見て、何か助けを求めて欲しいような視線を送っていた。
『あの、一ノ瀬さん⋯⋯。この人は俺の師匠って言っても、ウチらと同い年だから』
『え?』
一ノ瀬さんは、僕の方を目を剥いて振り向いた。
『普段は友達みたいな感覚で喋ってるから、そんなに気を使わなくてもいいよ』
『そ、そうなんだ⋯⋯。でも⋯⋯』
『堅苦しい言葉は苦手なんで、もっとフランクに話しかけてあげて』
『わ、わかった』
僕が説き伏せるように告げると、一ノ瀬さんは再びグラシューの方を見た。
「えっと⋯⋯。うーん、何か調子狂うな⋯⋯。こっちに来てから、年の近い女の子と喋ったことなかったから⋯⋯」
一ノ瀬さんは何やら独り言を呟きながら、頭を掻いていた。
「あの⋯⋯とにかくゴメンね。大事なお友達を傷つけちゃって」
「お、おう⋯⋯。わかった」
しばらく、二人の女子は見つめ合っていた。
「アタシこそ⋯⋯いきなりヒドイこと言ってゴメン⋯⋯」
「ううん。いいんだよ。ありがとう」
一ノ瀬さんはグラシューに対し、満面の笑みを見せて言った。
それを見たグラシューもホッとしたのか、表情が緩んでいた。
すると、グラシューは僕と一ノ瀬さんの顔を交互に見て、何やら考え込んでいる様子を見せた。そして、グラシューの瞳は僕の顔に照準が合った。
「ふーっ⋯⋯すごくいいコじゃないか。かわいくて、スタイルもよくて、おまけに性格もいいなんて。ソーイチにはもったいないな」
「は⋯⋯?」
「ちょっと不釣り合いな気もするけど⋯⋯」
グラシューは、しばらく溜めを作った。
そして、一ノ瀬さんの方を振り向き、彼女に向かって人差し指を突き立てる。
「よし! ソーイチの師匠として、キミとソーイチとの交際を認めてやろう!」
「はあっ!?」
「ええっ!?」
僕は思わず叫んだ。
一ノ瀬さんも、両手で口を覆っていた。
「ただし、清い付き合いをするんだぞ。結婚するまでS●Xはおろかキスも⋯⋯」
「ち、ちょっと待てって!」
暴走を始めるグラシューの言葉を、僕は強引に遮った。
「何でそうなるんだよっ! 別に俺たちは付き合ってないし⋯⋯」
僕は一ノ瀬さんの方を見た。
「ねえ、イチノ⋯⋯いや⋯⋯」
僕は口籠った。
アルサヒネ語の会話の流れで『イチノセサン』と呼ぶのも変だ。
ただ『クレア』と呼び捨てにするのも、何か恥ずかしい。
「クレア⋯⋯さん」
僕は一ノ瀬さんの名前に、アルサヒネ語で敬称にあたる言葉を付け加えた。
僕に名前を呼ばれた一ノ瀬さんは、両手で覆われていた口元を、ゆっくりと見せ始めた。
「う、うん⋯⋯。私とソーイチさんは別に⋯⋯」
僕も敬称を付けて呼ばれた。
「ん? 何だお前たち。同い年なのに『さん』付けで呼び合うなんて」
グラシューはすぐ様、僕らの会話の違和感にツッコミを入れた。
「えっと⋯⋯それはその⋯⋯」
説明に困る。
アルサヒネ語には、日本語における『君』『さん』または『ちゃん』にあたる言葉がない。
目上の人、またはビジネス関係以外では、名前は呼び捨てにするのが一般的だ。
しかし、日本人としての感覚が残る僕には、そこまで親しくない相手を呼び捨てにすることに、抵抗がある。
無論、それは一ノ瀬さんも持っているようで。
そう思うと、彼女との距離はまだあるようで、少し悲しいが。
「せ、精霊の使いの間では、そういうルールがあるんだ!」
僕は、何となく上手く誤魔化せる理由を見つけた。
「ねえ? クレアさん?」
僕は再び、一ノ瀬さんに目配せした。
「そ、そうね! ソーイチさん!」
彼女も、僕の意図に乗ってくれた。
それにしても、一ノ瀬さんとアルサヒネ語で会話するのは、強い違和感を覚える。
「ふーーん、変なの。まあ、いっか。ところでクレア」
グラシューは、一ノ瀬さんに目線を合わせた。
「アタシ、グラシューっていうんだ! よろしくねっ!」
張り裂けんばかりの笑顔を見せ、グラシューは改めて一ノ瀬さんに自己紹介をしていた。
「いちおー、ソーイチの師匠ってことになってるけど、気を使わなくてもいいからさっ! 気軽に何でも話して!」
「ありがとう。こちらこそよろしくね、グラシュー」
一ノ瀬さんも眩しい笑顔で、グラシューに言葉を返していた。
--ホッ⋯⋯よかった。
グラシューが一ノ瀬さんに突っかかってきた時は、どんな修羅場が訪れるのかと心配していたが、一ノ瀬さんの出来すぎた応対で、杞憂に終わった。
「えっと⋯⋯オレ、完全に出遅れた感じなんだけど⋯⋯」
その声が聞こえた方を振り向くと、困った表情を見せるバリーがいた。
「あ⋯⋯そうだよね! ゴメン⋯⋯えっと⋯⋯」
僕はその場にいる三人の顔を見回し、どうするべきかを考えた。
「と、とりあえずクレアさん、せっかく来てくれたんだから、ゆっくりしてって! ここ、空いてるから座ってもらって⋯⋯」
僕は四人掛けのテーブルのうち、空いているグラシューの向かいの席に、一ノ瀬さんを座るよう促した。
「あ、うん。ありがとう。ゴメンね、突然押しかけてきたのに、気を使ってもらっちゃって⋯⋯」
一ノ瀬さんは申し訳なさそうに言うと、ゆっくりと腰掛けた。
「で、バリー、彼女はね⋯⋯」
僕はバリーに向けて、一ノ瀬さんの紹介を始めた。
そしてその後、僕ら同い年の四人は、たわいも無い話で盛り上がっていた。