第98話 遥か彼方に咲く花のような
「え? 私も行って平気なの?」
「うん、もちろん。クレアさんが今日、時間あればの話だけど」
僕、グラシュー、バリー、そして、途中から思いがけず加わった一ノ瀬さんの同い年四人は、ヌヴォレのバーで会話を交わしていた。
その中で、今日の夕方、キャリダットにある野外コンサートホールで催される音楽祭に、バリーも出演するという話があり、一ノ瀬さんも一緒に来ないかと、誘ったところであった。
『 一ノ瀬さんって、こんなに可愛かったっけ!?』第98話
アルサヒネ歴 八六六年五月二七日
月村蒼一は異世界で恋に落ちる
「うれしい、ありがとう。じゃあ、ご一緒させてもらおうかな」
「アルディンさんは平気? 早く帰って来いとか、言われてない?」
「うん、大丈夫。むしろ、これからは一人で暮らせるくらい強くなれって、言われてるし」
「そ、そうなんだ⋯⋯」
僕らの誘いに、一ノ瀬さんは心躍らせるような口調で乗ってきた。
「じゃあオレ、準備あるからそろそろ行くわ」
バリーは、凛とした表情で立ち上がった。
「ああ、そっか。じゃあ、俺たちも後で行くから」
「おう、よろしくな」
リラックスしている僕らとは違い、バリーからは少し張り詰めた雰囲気を感じていた。
「がんばれよーっ!」
「応援してるからね」
口調がまるで違う二人の女子に励まされたバリーは、爽やかな笑顔を返し、その場を去っていった。
「さて、ウチらはそれまで、どうしよっか?」
グラシューは椅子に深くもたれかかり、手を頭の後ろに組み、問い掛けた。
「もう十一時過ぎか。今日の昼ごはんのお店、探しにでも行く?」
「そだねー。あっ、そういえば、ケーキがチョーおいしいって評判の店があったの、思い出した」
「そうなの?」
「うん、たしか音楽祭やるところの近くだった気がする。そこ、行ってみたい」
「なら、そうしようか」
僕が淡々と答えると、グラシューは一ノ瀬さんの方を向いた。
「クレアは、甘いもの好き?」
グラシューに問い掛けられた一ノ瀬さんは、輝かせるような目で彼女を見た。
「うん、大好きだよ」
「お、よかったー」
「太るから控えなきゃとは思いつつも、つい食べちゃうよね」
「わかるー」
女子トークが展開され始めた。
どうやら、しばらく収まりそうにない。
僕がそこに入る隙間は無さそうで、大人しくしていることに決めた。
「けっこう高いお店みたいで、行こうと思ってもなかなか手が出なくてさー」
「そうなの? 私たちみたいな子供が行っても平気?」
「大丈夫! 今日はソーイチが、全部おごってくれるから」
「!?」
聞き捨てならない台詞が飛んできて、僕はゆくりなく彼女たちの方を振り向いた。
「い、今なんて言った?」
「ん? 今日のランチ代、ソーイチがウチらの分もおごるということですけど、何か?」
「何かって⋯⋯。いつ決まったの? それ⋯⋯」
「いつって、ねえ、クレア」
女子二人は、目を見合わせていた。
「ソーイチさん昨日、ご飯ご馳走してくれるって、言ってくれた」
一ノ瀬さんは不敵な笑みを浮かべ、僕の方を見て言った。
彼女のその顔は、彼女と闘った時にみせた妖艶な笑みにも似ていた。
「イチノセ⋯⋯あ、ゴメン⋯⋯。クレアさんには言ったけど、グラシューには⋯⋯」
僕はたどたどしく言うと、女子二人は再び目を合わせた。
「えーっ、聞いたクレア、今の」
「うん、聞いた」
「アタシにはおごらないんだってさ。ひっでぇー男だよね〜。いつもお世話になってる師匠への感謝もカケラもないんだよ、コイツ」
白々しい目で、グラシューは僕の方を見てきた。
「な、なんでそうなるのさ⋯⋯。関係なくない?」
「っていうか、こういう時くらい、俺が全部出すよとか言えないもんかね? どう思う? こういう男」
グラシューに問われた一ノ瀬さんは、僕の方をじっと見てきた。
「うーん⋯⋯。ちょっと残念かな」
「!?」
一ノ瀬さんは変わらず、妖艶な笑みを見せ、僕に言ってきた。
その一言は、僕の心の奥底を突き刺してくる。
「そっかぁー。クレアは男らしくて、頼り甲斐のある人が好きなんだねー」
グラシューは一ノ瀬さんの方を見て、皮肉混じりに言い放った。
--くそ、グラシューのヤツ⋯⋯、俺の気持ちを利用して、高級ランチをタダで済まそうとしやがって⋯⋯。
実に女は恐ろしい。
心の折れた僕は、悄然として口を開く。
「わ、わかりました。今日のみなさんのランチ代は、俺が出します⋯⋯」
「イェーイ! そうこなくっちゃ!」
「ソーイチさん、かっこいい!」
女子二人は笑顔でハイタッチを交わし、僕はひたすら苦笑いするしかなかった。
--はあ⋯⋯。明日から、しばらく自炊しなきゃ。
◇
ヌヴォレから出掛ける間際、グラシューが席を外していた時であった。
『あの、月村くん』
真剣な表情をした一ノ瀬さんが、僕を日本語で呼んだ。
『どうしたの?』
『グラシューのノリに合わせちゃったけど、さっきのランチの話、無理しなくていいからね。出すから、私も』
上目遣いで申し訳なさそうに言う彼女の顔を見て、僕の体温は上昇した。
『いや、いいって。そもそも一ノ瀬さんには、ご馳走するつもりだったし。グラシューには⋯⋯まあ、いつも何だかんだで払わされてるし』
『そうなの? ええっ⋯⋯何か可哀想⋯⋯』
一ノ瀬さんは、潤んだような瞳で見つめてくる。
やめてほしい。
そんな目で見られたら、自分自身を抑えられなくなる。
『き、気にしないでって。俺、それなりに余裕あるから』
僕は、滅多に見せない見栄を張った。
堂々とした表情を見せているつもりでいるが、浮き足立つ裏の心を見抜かれていないだろうか。
『⋯⋯ありがとう。月村くん、本当に優しいよね。じゃあ今度、私におごらせてね』
一ノ瀬さんは、懇ろな笑顔を見せて言った。
そんな圧倒的な気遣いを秘める彼女の発言に、僕はコクリと頷くことしかできなかった。
やばい。
天使すぎる。
グラシューの言う通り、彼女は僕なんかにはもったいない。
これから、一ノ瀬さんを口説き落とそうにも、彼女は僕にとって、高嶺の花という表現すら生温い。
彼女は、途方も無く遠い所にいるような気がする。
自分のものにすることなど、何億光年先のことか。
彼女の笑顔を見ていると、気持ちが高揚するのは間違いないが、彼女との差を感じ、情けない気持ちも込み上げてきた。
『⋯⋯ら君?』
何か声が耳に入ってくるが、よく聞こえない。
背中が、ひたすら熱い。
『⋯⋯きむら君?』
夢なら、覚めなきゃいいのに。
どうか現実であってほしい。
『おーい、月村くーん?』
『!?』
僕は澄み切った声に、反応した。
気づけば、一ノ瀬さんが掌を開き、僕の目の前で縦に振っていた。
『大丈夫?』
彼女は心配そうな表情で、僕を見ていた。
『あ、ああ⋯⋯うん』
『ホントに? 何か、目の焦点が合ってない感じだったけど⋯⋯』
『え⋯⋯そうなの?』
いったい、僕はどんな顔をしていたのだろう。
ダメだ。
完全に、僕は自分を見失っている。
『もしかして、疲れてる? 昨日も仕事終わりに来てもらったみたいだし、無理してるんじゃ⋯⋯』
小柄な一ノ瀬さんは、相変わらず上目遣いで僕を覗き込むように見つめ、声をかけてきた。
『ううん、大丈夫だから。ホントに』
僕は気丈に振る舞った。
『ええっ⋯⋯でも、何か心配⋯⋯。昨日もボーっとしてる瞬間があったし、変な病気とかじゃないといいけど』
--敢えて言うなら、恋の病には冒されているかもしれないね。感染源はもちろん一ノ瀬さん、君だよ。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯
⋯⋯
--うわ、ダッセぇ⋯⋯。
決して口には出さなかったものの、一瞬でもそんな台詞を頭に思い浮かべ、僕は激しく後悔した。
僕は今、涙が出そうなくらいの羞恥心に襲われている。
「ごめーん! お待たせーっ!」
甲高く威勢の良い声が、耳に入ってきた。
「ううん! 大丈夫だよ」
戻ってきたグラシューに、一ノ瀬さんは明るく返事をしていた。
何気ない一言だが、僕にとっては特別輝いたものに見える。
相変わらず、彼女の一挙手一投足が、目の離せないものになっている。
「じゃ、行こっか!」
「うんっ!」
すっかり打ち解けたグラシューと一ノ瀬さんが、ヌヴォレの出入口に向かって歩き出していた。
二人の背中が並んでいるのを見ると、何だか不思議な感じがして、思わず見入ってしまう自分がいた。
「あれ? おーい、バカ弟子ーっ! 何してんだー?」
「ソーイチさんっ、早くーっ!」
二人は振り向くと、動かなくなっていた僕に声をかけていた。
「あ、ああ! ゴメン、今行くよ!」
病に冒されていた僕の足は、重い一歩を踏み出していた。